野球選手として復活

今年から四国アイランドリーグplus・高知ファイティングドッグスに入団が決まったマニー・ラミレス。みなさん、この選手はご存知ですか?野球ファンであれば誰もが知っている選手ですよね。
ドミニカ共和国出身で11歳の頃にニューヨークへ移り住んだ二重国籍の持ち主です。
彼が頭角を現しはじめたのがドラフト1巡目全体の14位で入団したクリーブランド・インディアンス時代。入団後、3年目には3Aで打率.333 本塁打31 打点115 を記録。同年の9月にメジャー昇格となっています。
その翌年からメジャーに定着し、ア・リーグ新人王に輝きました。ここから彼のスターダムが始まります。
翌1995年にはワールドシリーズ出場に大きく貢献。ワールドシリーズでも本塁打を放つ活躍をされましたが、当時ナ・リーグの常勝軍団アトランタ・ブレーブスに2勝4敗とワールドチャンピオンは逃しました。しかし、そのシーズンの成績は打率.308、31HR、107打点でシルバースラッガー賞を受賞しています。
ここまでパッとしなかったクリーブランド・インディアンスを強くしたのは、間違いなく彼の存在が大きいことは間違いありませんでした。
クリーブランドで過ごした最後の年は怪我に悩まされ、彼の出場機会が激減したことも大きく影響しプレイオフ(ポストシーズン)進出を逃しています。

輝き放ったレッドソックス時代

彼の活躍はここからが本番。2001年に古豪ボストン・レッドソックスに移籍します。
移籍後、初打席となった本拠地のフェンウェイ・パークでは初球を打ち初ホームランとボストンのファンを歓喜させました。
2002年には、シーズン通算で打率.349を記録し初のア・リーグ首位打者を獲得し、本塁打だけではないことを証明します。
その後、ボストン・レッドソックスはみるみるうちに強くなり、チームメイトのデビッド・オルティーズともホームランのアーチ合戦状態。
2004年には、遂に念願のワールドチャンピオンとなりました。バンビーノの呪いを払拭した瞬間でもありました。この年のマニー・ラミレスの活躍は著しく、最高のタイトル「ワールドシリーズMVP」にも選ばれました。
風貌も、トレードマークのドレッドヘアと、野球ファッションにも新たな風を吹き込んだ存在でもあります。
2007年までボストン・レッドソックスでプレイをした後、新天地をロサンゼルス・ドジャースへと移します。
しかし、ドーピング疑惑がかけられてからというもの調子をどんどん落とし、なかなか活躍のニュースが見れなくなってしまいました。
2014年には選手の第一線から退き、シカゴ・カブスのフロントで働くようになり、そして今回、再び野球選手として帰ってきました。

グリーンモンスターの使い手

さてさて、マニー・ラミレスといえば、ボストン・レッドソックスの本拠地のフェンウェイ・パーク名物「グリーンモンスター」を扱うのがとても上手な選手でした。
今年で95年になるフェンウェイ・パークは(1912年4月オープン)現在のメジャーリーグ球場中で最も古く、歴史があるだけに球場にまつわるエピソードは沢山!
例えばスコアボードは今でも手作業で変えているとか、次々と工事をして客席を増やしていったとか、限られた敷地に建てられた為レフトスタンドが狭くなっているとか。
実はその狭いレフトスタンドがこの球場の特徴ともなっているのです。現在は「グリーンモンスター」という愛称で呼ばれる高さ約11.3mの巨大な壁が立っています。
約94.5mの左翼ですが、そこにそびえ立つ11.3m。ライナー性であればその壁を越えることなく壁にぶつかりレフトが処理する形となりますが、そのグリーンモンスターにぶつかって帰ってくる打球の処理方法を知り尽くしたマニー・ラミレスは、ホームラン性の当たりでもあるグリーンモンスターにぶつかって帰ってくる打球を見事に処理し、2塁でアウトにするというシーンをよく目にしました。まさにグリーンモンスターの魔術師といえたレッドソックス時代のマニーでした。

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