槍の中でも名槍の天下三名槍とは?
「西の日本号、東の御手杵」と並び称されていましたが、いつしかそこに「蜻蛉切」が加わって、明治時代からこの3振が天下三名槍と呼ばれるようになりました。
はじめに
みなさんは天下三名槍をご存知でしょうか?
数ある槍の中でも、特に名槍(めいそう)と誉れの高い3振を「天下三名槍」(てんがさんめいそう)、もしくは「天下三槍」(てんがさんそう)と呼びます。江戸時代には「日本号」(にほんごう/ひのもとごう)、「御手杵」(おてぎね)の2振が「西の日本号、東の御手杵」と並び称されていましたが、いつしかそこに「蜻蛉切」(とんぼぎり)が加わって、明治時代からはこの3振が天下三名槍と呼ばれるようになりました。
日本号(にほんごう/ひのもとごう)
元々は御物(ぎょぶつ:皇室の所有物)。「正三位」(しょうさんみ:上流貴族の位階、大納言)の位を賜ったとされており、「槍に三位の位あり」と謳われた1振です。
「正親町天皇」(おおぎまちてんのう)から足利義昭(あしかがよしあき)が拝領したのち、天下人として名を馳せた「織田信長」や「豊臣秀吉」の手に渡りました。
そののち、秀吉の部下であった「福島正則」(ふくしままさのり)に下賜され、ひょんなことから黒田家の家臣、「母里友信」(もりとものぶ)の手に。「日本号」と言う号は、秀吉の頃に付けられた説と、後述する「吞み取りの槍」の逸話が生まれた友信の頃に付けられたとする説があります。
秀吉は、自らの部下である福島正則にこの槍を譲ります。正則は、「賤ヶ岳の戦い」で一番槍・一番首として敵将「拝郷家嘉」(はいごういえよし)を討ち取った「賤ヶ岳の七本槍」のひとり。名槍にふさわしい持ち主だと、秀吉は考えたのかもしれません。
ここで、もうひとり、「槍の名手」が登場します。福岡藩主・黒田家の家臣・母里友信です。黒田24騎のひとり、黒田8虎にも数えられる友信は、生涯で敵将の首を76も取ったと言われています。
正則と友信には、槍の名手という以外に、もうひとつ共通点がありました。2人とも「酒豪」だったのです。あるとき、友信は、正則の屋敷へ使いに出かけます。出発前に注意されたのは「勧められても、酒を吞まぬこと。大切なお役目に粗相があってはならぬ。酒好きな福島正則から誘いがあっても決して吞んではならない」と、酒癖の悪い友信は諫められ、正則の屋敷におもむきます。
予想通り酒を勧められたものの、友信は「勤務中であるから」とひたすら固辞。ところが、正則は「吞めば、望む物を褒美[ほうび]とする」ともちかけ、それでも断る友信に「黒田家の武士は酒も吞めない腰抜けなのか」とからみました。
さすがの友信もこの侮辱には、思うところがあったのでしょう。差し出された大盃の酒を何杯か吞み干します。そして友信は、名槍日本号を所望するのです。こうしてご紹介すると、「黒田節」を思い出される方も多いのではないでしょうか。
“酒は吞め吞め 吞むならば
日の本一のこの槍を 吞み取るほどに 吞むならば
これぞ真の黒田武士”
黒田節は、友信と正則、日本号の逸話をうたっています。また、この逸話をもとに、日本号には吞み取りの槍と言う異名が付けられるのです。
御手杵(おてぎね)
御手杵と言う名前の由来には、戦国時代ならではの逸話があります。ある戦場で、結城晴朝は倒した敵の首十数個を愛槍に突き刺し、担いで帰城の途に就きました。
すると途中で中央あたりの首級がひとつ落ちてしまったそうです。そのときの槍の姿が「手杵」(てぎね)のように見えたため、のちに手杵形の「鞘」(さや)を付けたとのこと。手杵とは、臼で餅米などを搗く(つく)ときに用いる中ほどがくびれた太い棒のことです。この鞘の形状から御手杵と呼ばれるようになりました。
御手杵を鍛えたのは、室町時代に駿河国(するがのくに:現在の静岡県)嶋田で活動していた刀工「島田義助」(しまだぎすけ/よしすけ)。室町時代中期から江戸時代中期まで代を重ねた刀工一派「嶋田」派の4代目です。その技量は極めて高く、御手杵を実際に鑑定した「本阿弥光遜」(ほんあみこうそん)は、穂先に刻まれた樋を観て、「谷のような深い溝」であると感嘆したと言います。
地鉄は「小杢目」(こもくめ)交じり、刃文は「小乱」(こみだれ)に光が線状に見える「砂流し」入り。穂先の断面は正三角形で、このことから御手杵は突くための武器であったと分かります。
晴朝は、この威風堂々たる御手杵を馬印(うまじるし:戦場で武将が所在を明示するために馬前、または馬側に立てた印)として誇示していました。
蜻蛉切
蜻蛉切は、徳川家康の側近の中でも、多くの功績を立てたことで知られる「徳川四天王」のひとり、本多忠勝の愛槍です。
忠勝は、生涯57回戦場に出て、1回もかすり傷すら負わなかったと言われる猛将。多くの戦において蜻蛉切は、忠勝の武器として活躍しました。なかでも「蜻蛉切」という号の由来となった逸話は有名で、その切れ味を後世に伝えています。
ある日、忠勝が戦場に持参した槍を立てていたところ、たまたま飛んできた蜻蛉が穂先にあたりました。すると蜻蛉は瞬く間に2つに切れてしまったのです。この切れ味の良さを観て、約2丈の長大な槍は蜻蛉切と呼ばれるようになりました。
蜻蛉切を鍛えたのは、「三河文殊」(みかわもんじゅ)派の刀工、「藤原正真」(ふじわらまさざね)。三河文殊派とは、三河に居を移し日本刀(刀剣)を制作したもと村正派の呼称です。切れ味の良さを誇る「村正」の系譜であることからも、蜻蛉切の切れ味の良さが伺えます。
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