戦国最強・生涯無傷の本田忠勝とはどんな人物か?
57回の戦に出ながら、忠勝は傷一つ負うことがなかったと伝えられています。
弓や鉄砲も使われていたはずですから、本当だとすれば奇跡に近いことではないでしょうか。
はじめに
みなさんは本田忠勝という武将をご存知でしょうか?
本やゲームなどでも戦国最強という言葉も聞かれます。
しかし、本田忠勝は戦国時代にどんな活躍をしたかまでは、知らない方も多いのではないのでしょうか?
今回はそんな本田忠勝についてどんな人物だったのかを少しですが紹介したいと思います。
本田忠勝
本多忠勝は天文17(1548)年に三河国(愛知県)に生まれ、幼い頃から徳川家康に仕えた重臣中の重臣で、気心知れた仲です。愛槍「蜻蛉切り」を携えて戦場を駆け、猛将として名を馳せました。江戸幕府創業の元勲として徳川四天王や徳川十六神将に名を連ねています。
忠勝は家康に従い多くの戦に参戦しましたが、その数は生涯で57回にも及ぶとされています。
永禄3(1560)年、13歳の時に桶狭間の戦いの前哨戦で初陣を飾り、翌年には初首を挙げました。この時、父代わりの叔父・忠真が首を譲ろうとしたのを制し、自ら敵陣へ突っ込んで首を取ってきたそうです。
戦で傷無し
57回の戦に出ながら、忠勝は傷一つ負うことがなかったと伝えられています。
弓や鉄砲も使われていたはずですから、本当だとすれば奇跡に近いことではないでしょうか。
慶長5(1600)年の関ヶ原の戦いにおいては、西軍の島津義弘隊の捨て身の攻撃によって他の武将たちが負傷しますが、なんと忠勝は無傷でした。それどころかたくさんの首級を挙げてきたというのですから、忠勝の無双ぶり、尋常ではありませんよね。
慶長15(1610)年に忠勝は63歳で亡くなりましたが、その死にまつわる逸話があります。それは、彼が生涯傷を負わなかったことと関連するものでした。
隠居生活を送っていたある日、忠勝は小刀で彫り物をしていた時に誤って手を傷つけてしまいました。「傷を負うようでは本多忠勝も終わりだな」と呟いた彼は、そのわずか数日後に亡くなってしまいます。その小さな傷が、生涯で彼が負った唯一の手傷だとされているのです。
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ソフトボールをずっとやってきたので野球大好きです。
12球団のホーム球場制覇まで、残すは日ハムのみ。
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