はじめに

東京2020も無事に終わりましたね。
コロナ過でしたが、感動を与えてくれました。
金メダルも獲得数も多く、その一つの日本のお家芸体操ですね。
今回は体操の鉄棒種目について紹介したいと思います。

鉄棒

予選1位だった橋本大輝(19、順大)が金メダルを獲得しました。最終種目の鉄棒を前に3位だったが、ノーミスの演技で出場選手中最高得点をマークし計88.465点で逆転勝利しましたね。
最終種目の鉄棒を前にトップの肖若騰(中国)を超えるために14.533点以上が必要だった。予選と銀メダルとなった団体決勝で橋本は15点以上の高得点を叩き出している。
橋本は「自分がミスなくいけば、間違いなく金メダルはあると思った」という。
 大きなミスなく演技ができれば逆転できる得点差。だが、この人生最大の金メダルがかかった五輪の緊張の舞台でミスなく演技をやりきることほど難しいものはない。。

「NHK杯で(五輪)代表を決める緊張よりは、少し少なく、最後、この場面を楽しもうと。待っている間もずっと肩を動かしてワクワクした感じを出した」。
 国内の五輪代表を争った5月のNHK杯の緊張の方が上回っていたという。
そして「メダルの色より記憶に残る演技をしようと思った」というから恐ろしい。
 橋本は目を瞑り、そして力強く鉄棒を握った。
まずG難度の離れ技「カッシーナ」を危なげなく成功させると、E難度の「コールマン」、「トカチェフ」、「リンチ」とD難度の離れ技を勇壮にたたみかけた。最後はE難度の伸身の新月面でフィニッシュ。着地した橋本は、両脚が揃ってポンと少しだけ前に出たが、勝利を確信したかのように広げた両手でガッツポーズを作り、ひとつ手を叩き、最高の笑顔を浮かべました。

中国のミス

中国が鉄棒で犯したあるミスが、最後に橋本の心理状態に微妙な影響を与えていたのではないかと分析した。
「中国の肖若騰は興奮のあまり挨拶をしないというミスを犯していました。実は記録を見ると肖若騰にNDの減点0.3がつけられていた。体操競技には、演技を始める前と終わった後に挨拶するルールがあり、それを怠ると0.3減点されます。特に国際大会ではシビアに見られ、その減点でメダルを取れない選手もいた。厳密には挨拶する前のガッツポーズも減点対象。14.0と14.3では、逆転優勝に必要なボーダーラインが違ってきます。

日本の強さ

日本が初めてオリンピックの体操競技に出場したのは1932年のロサンゼルス大会でした。このときの団体の順位は5位。しかし5チームしか出場していませんでした。4年後のベルリン大会も13チーム中9位という成績に終わっています。

戦後初めて出場したオリンピックは1952年ヘルシンキ大会。この大会でも体操は5位でした。しかし20年前の「5チームで戦って5位」とは違い、「23チームで戦って5位」と大きく躍進しました。種目別で上迫忠夫が銀と銅、竹本正男が銀、小野喬が銅と、合計4個のメダルを獲得しています。

4年後のメルボルンオリンピックで小野喬は種目別鉄棒で「ひねり飛び越し」という技を成功させ、金メダルを獲得しました。さらに、あん馬で銀、平行棒で銅。個人総合では銀メダルに輝きました。団体でも銀メダルを獲得しています。このころから体操の世界選手権で日本とソ連(現在のロシア)がトップ争いを繰り広げるようになります。

日本が勝利の道を本格的に走り始めたのは、1960年ローマオリンピックからだった。古代ローマのカラカラ浴場跡で行われた体操競技の団体で日本は金メダルを獲得し、ついに世界のトップに立つ。
さらに小野喬が種目別の鉄棒と跳馬でそれぞれ金、平行棒とつり輪で銅メダルを2つ追加し、個人総合で銀メダルを獲得。結果、個人で5個、団体を合わせると6個のメダルに輝きました。この大会で日本が獲得した全メダル数18個の3分の1を小野がもたらしたことになります。そしてローマ大会で日本が獲得した金メダルは、すべて体操チームによるものでした。

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