はじめに

みなさんは前田慶次という人物をご存知でしょうか?
良く漫画やゲームや娯楽と幅広く活躍する前田慶次の存在。
そんな前田慶次の存在とはどんな風に描かれているのでしょうか?
意外と知らない傾奇者の前田慶次について、少しですが紹介したいと思います。

前田慶次

前田慶次は天文10年頃、旧海東郡荒子(現在の名古屋市)に生まれました。父は織田信長の部将滝川一益の甥益重と伝えられています。後に、母が前田利家の兄利久の後妻となったために養子となり、前田姓を名乗り慶次郎利益(利太)となりました。

 義父利久は、尾張荒子城主前田利春の長男であり、利春が没すると跡を継いで荒子城主となりました。慶次は利久の姪と結婚し、順調に行けば跡目を継いで荒子城主となるはずでしたが、織田信長が家督相続を許さず、利久の弟である利家に譲るよう命じました。

 利久が家督を利家に譲った後、諸説はさまざまですが、「米沢人国記」には、慶次は京都で暮らしたと記されています。
慶次は、京都で公家や文人と交流して和漢古今の書に親しみ、連歌は当時の第一人者紹巴に学び、茶道は千利休七哲の一人である伊勢松坂城主古田織部に皆伝を受けたといわれています。また、武術についても弓馬はもちろん、武芸十八般にも通じていたといわれています。

慶次は三間柄(5.4m)の大槍を持って、群がりくる最上勢の中に縦横無尽に分け入って戦っては退き、戦っては退くという見事な戦いぶりで、味方の将兵を誰一人傷つけなかったといわれています。

傾奇者

傾奇者とは、江戸前期に反体制的な行動をする武士や奉公人らを指した言葉です。かぶきといえば芸能の歌舞伎を思い出しますが、そもそも歌舞伎の源流「かぶき踊」は、慶長8年(1603)、出雲阿国が「かぶき(傾き)=偏った異様な行動・風俗」を取り入れて始まったものとされています。当時はどちらも異端なものという認識だったようです。
初期の傾奇者の多くは、没落した小領主や武家奉公人でしたが、町人や旗本・御家人らが傾奇者になることもありました。彼らは狼藉を働いたため嫌われていましたが、その一方で生き様に共感や賞賛が集まることもあったようです。

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