川崎球場

「テレビでは見れない川崎劇場」のCMキャッチコピーが有名にもなった川崎球場は様々な名シーンと仰天エピソードが盛り込んだ球場でした。
川崎球場は、戦前から社会人野球が盛んだった事により、市内で新たな社会人野球向けの野球場を建設する機運が高まった事から、1951年に、市とその企業らの共同出資で作られた球場でした。
1957年から1977年の21シーズンは大洋ホエールズが、1978年から1991年にかけての14シーズンは、ロッテが本拠地を置いていました。
大洋本拠地時代は、かの王貞治が一本足打法を初披露し、ホームランを放った球場で有名となりました。
ロッテ本拠地時代は、老朽化し、かつ登場人気の凋落した球団という事もあいまって、当時の球団の発表値の観客数で5000人以下の観衆しか集まらないほど、球場は閑古鳥が鳴き、テレビの珍プレー好プレー番組などでは、試合をよそにスタンドで流しそうめんや麻雀などをし、勝手にたわむれている観客の姿がしばしば取り上げらるほどでした。
更には、戦前の刑務所の設定で、川崎球場のトイレが映画のロケーションで使われるほど、あまりにも汚い球場でした。
そんな末期の川崎球場で、日本中の注目の的となったのが、あの近鉄が優勝のかかった10.19決戦でした。普段閑古鳥が響く川崎球場が満員。テレビ中継視聴率も30%越えと、輝きを見せたときでした。

その後、1991年のシーズンを最後に、ロッテが千葉へ移転し、2000年に老朽化を機に閉場。解体され、現在は川崎富士見球技場としてアメリカンフットボール専用スタジアムに生まれ変わりました。

藤井寺球場

近鉄バファローズの本拠地としてお馴染みの藤井寺球場。
その歴史は古く、1928年に完成。戦前はアマチュア野球で使用された球場でした。
そして1949年の2リーグ分裂時に近鉄は新球団を結成し、翌年のリーグ開幕に向けて約8000万円をかけてスタンドやグラウンドを改修。1950年から近鉄パールス(後の大阪近鉄バファローズ)の本拠地となりました。
しかし、近隣住民の反対もあり1983年まで照明設備がなく、本球場ではナイターを開催することができなかったため、近鉄は平日の公式戦をもっぱら大阪球場(1950年~1957年)と日生球場(1958年~1983年 )で開催。本球場は野球協約に定める専用球場(=本拠地)でしたが、長年にわたって一軍の週末や祝日のデーゲームや二軍の試合に使用される名目上の本拠地であり、オールスターも開催基準も満たせず、近鉄の本拠地=日生球場のイメージが強かったのです。その後1984年に照明設備も完備され、スタンド座席も増やし、80年代〜90年代前半にかけて、仰木政権の強いバファローズを象徴する球場として機能していきました。

そしてその後は1996年を最後に大阪ドーム完成を機に、藤井寺球場は本拠地としてに役割を終え、二軍球場へ。

2004年のオリックスとの球団合併による近鉄球団消滅を機に、藤井寺球場も閉場。解体されました。

跡地には、四天王寺学園小学校・中学校が開校され、生徒たちが学業を勤しむ場として生まれ変わっています。

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