蔦文也

徳島県立池田高校野球部を40年間指導。74年春に、わずか11人の部員で準優勝導き、「さわやかイレブン」と呼ばれ旋風を巻き起こした。80年代には82年夏、83年春の夏春連覇を含む。3回の優勝を果たし、池田高校黄金期を作り上げた。

その強さの秘訣は、鋭い打球が自慢のパワー野球で、対戦相手を次々にねじ伏せる超攻撃野球。芯を少々外していても筋力があれば打球を飛ばせる金属バットの特性を最大限に生かすため、当時では珍しかった筋力トレーニングを積極的に行い強力打線を作り上げ、「やまびこ打線」というニックネームが付くほどの異名を持った。守り重視の野球が多かった時代、池田高校の規格外な野球は、以後の高校野球のスタイルを変えたものだった。鋭い打球が自慢のパワー野球で、対戦相手を次々にねじ伏せその攻撃力と、蔦の強烈なキャラクターから「攻めダルマ」と畏れられていた。

その愛称から強気な性格が連想されるが、実際の蔦はものすごく臆病な性格で、初めて甲子園に出場するまでは3点リードされていても「もうダメじゃ。帰り支度や」と試合を捨てることもあったという。

木内幸男

取手二高で84年夏、清原和博・桑田真澄を擁したPL学園を決勝で破り優勝。常総学院では就任3年目の87年夏に、島田直也、仁志敏久を擁し準優勝。その後も01年春、03年夏に優勝を果たした茨城県が誇る屈指の名将。

勝利監督インタビュー等における茨城弁での受け答えが、朴訥としたものながら印象的であり、その茨城弁丸出しで愛嬌のある語り口は「木内節」として高校野球ファンに親しまれている。

猛練習で選手を鍛え上げその力で相手をねじ伏せていくことを目標している強豪が多いのに対して、木内は選手が自分の采配を理解してついていけるような状況判断やサインプレーなどいわゆる「野球の頭」を鍛えることを重点に置く。その采配は「木内マジック」と称され、熱狂的なファンは全国に多い。選手起用は独特で、先発投手は意表を付いたものが多く、選手の交代も激しい。また、盗塁やスクイズのような機動力を駆使した采配も得意だが、むしろそれ以上に傍から見ると無謀ともいえる強攻策を仕掛ける事も多い。これは博打を打っているのではもちろんなく、自軍の打撃の勢いや相手の投手の調子を把握し試合状況的に「バントをさせに」棒球を投げてくることなどを読んだ上で仕掛けたりする。このように木内は高校野球の監督として非常に異質であり、戦術の妙や試合の流れを読む能力という面ではプロ・アマを含めた野球界でもトップクラスとされる。プロで活躍した仁志敏久も、「木内監督以上に野球を知っている人はいない」という趣旨の発言をしている。見た目は豪快で無作法なキャラクターだが、野球に対しては非常に緻密で繊細であることは多くの関係者が証言している。



選手をけなし倒して育てることでも有名で、「ダメなやつはいくら頑張ってもダメ」「やる気ないならやめちまえ」が口癖。もちろんこれは本心ではなく、そこで「ナニクソ」と反発心が生まれることを期待するものである。それまでのレギュラーをベンチメンバーから外し、甲子園大会の直前になって戻すという荒療治も時々行なっている。

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