七柱の福の神「七福神」が、現在のような形で人々に定着したのは江戸時代中頃。
浮世絵にも宝船に乗った七福神が描かれ、正月には初詣でを兼ねての七福神詣でが庶民の間で盛んに行われてきました。
そんな七福神を紹介していくシリーズです。
まずは恵比寿様です。

唯一の純国産の神

七福神中、唯―純国産の神で、伊弊諾尊(いざなぎのみこと)、伊弊舟尊(いざなみのみこと)の間に生まれた蛭子尊(ひるこのみこと)といわれる。

烏帽子に狩衣、釣り竿と魚籠を持ち、立派な鯛を抱えた姿で描かれる。
古くは漁民の守護神だったが、後に商いの神に。
大黒天と対で福の神として、庶民の信仰を集めた。
ご利益は、主に大漁豊作、商売繁盛。

大黒様との関係

戦国時代に、大黒天と恵比寿様をならべて祭る習俗が京都で起こり、各地に広がった。
この時期に商工民の間で大黒天と恵比寿様が特別に御利益のある福の神だとする考えが普及したことによるものである。

室町時代なかば頃までは恵比寿様を祭る集団と、大黒天を祭る集団が別にいた。
しかし室町時代末頃から大黒天と恵比寿様は仲の良い神様だといわれるようになり、大黒、恵比寿の二柱の神様を祭る家も出てきたのである。
そして戦国時代に大黒天信仰の急速な拡大が起こった。
戦国時代の世相を記した天文二一年(一五五二)成立の『塵塚物語』に、次のような記述がある。

「大黒。恵比寿を対にして、木像を刻んだり、絵に描いたりして安置する家が多くみられる」このような形の大黒、恵比寿をまとめて信仰する習俗が広まる中で、恵比寿様が大黒天の子とされるようになったのである。

恵比寿様を広めたのは西宮神社

毎年福男を決める為に壮大なレースを行う西宮神社。
この西宮神社が恵比寿様を広めたと言われています。

日本の漁村には、漂着物を遠方から来た神様とみて、夷様として祭る習俗が広まっていた。
恵比寿様が福の神とされると、このような夷様を祭った神社の多くが恵比寿神社になった。
古代豪族が日本神話の事代主命を祭っていた神社が、恵比寿神社と名を変えて福の神とされた例もある。

さらに蛭子命を祭る西宮神社が、愧儡師を用いて広範囲に布教を行なったために、各地の商工民が恵比寿神社を建てた。
こういった経緯によって恵比寿様が、日本人に最も身近な七福神となっていった。

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