九州の戦国武将の島津義弘とはどんな人物か?
1535年7月23日、伊作城(本丸を亀丸城と呼ぶ)にて島津義弘(しまづ-よしひろ)が誕生。父は島津貴久で、次男として生まれた。
はじめに
みなさんは島津義弘という人物をご存知でしょうか?
戦国時代では鬼島津と呼ばれていて、恐れられた存在です。
しかし、歴史上の人物で島津義弘がどんな活躍をしたか知らない方も多いのかと思います。
今回はそんな島津義弘について少しですが紹介したいと思います。
島津義弘
1535年7月23日、伊作城(本丸を亀丸城と呼ぶ)にて島津義弘(しまづ-よしひろ)が誕生。父は島津貴久で、次男として生まれた。
母は継室・雪窓夫人(入来院重聡の娘)。幼名は忠平。幼い頃から勇敢で活発だったようで、将来を嘱望されて育ったと言う。
島津家がほぼ九州の全土を抑え、最大の勢力を誇っていた第16代・島津義久の時代。義久にはそれぞれ秀でた能力をもった3人の弟がいました。なかでも本領で政治を取り仕切る兄に代わり、勢力拡大の主翼を担ったのが次兄である島津義弘でした。
義弘は祖父であり、島津家中興の祖である島津忠良から「雄武英略をもってほかに傑出する」と評されるなど、兄弟のなかでも特に武勇に優れていたと言われています。1557年に初めて首級をあげると、その後はその武勇を発揮し始めます。1577年には伊東氏を破り薩摩・大隅・日向の三州をほぼ統一、1578年には遠征してきた当時の九州一大勢力である大友氏を破り、その勢いはさらに増します。1586年には九州をほぼ掌握するまでに至ります。
島津の退き口
慶長5(1600)年9月15日(新暦10月21日)に起きた関ヶ原の戦いにおいて、石田三成率いる西軍が徳川家康率いる東軍に敗れ、西軍は次々に各部隊が敗走。
その中で、最後まで陣から動かなかった島津義弘率いる島津軍(約300)が敵中(約80,000)に孤立してしまう。
普通ならこの時点……というか、孤立する前に降伏するか寝返るか逃げるかするものだが、義弘の下した決断は尋常ではなかった。
島津義弘「敵は何処方が猛勢か」(敵の勢いが最も強いのは何処だ?)
家臣「東寄の敵、以ての外猛勢」(東側の敵勢の勢いが尋常でなく強いです)
島津義弘「その猛勢の中にあいかけよ(突っ込め)」
戦闘がほとんど終結していたにも拘らず、島津軍(約300)が東軍(約80,000)に向かって一斉に突撃を開始したのである。
家老・長寿院盛淳などが次々に討死したものの、大将である島津義弘は脱出に成功。
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