飯島秀雄(ロッテ)~代走専門の元オリンピック短距離選手~

「ロケットスタート」の異名を取るスタートの速さで頭角を表し、1964年6月26日、西ベルリンの国際陸上競技会で100m10秒1を記録。東京オリンピック、メキシコオリンピックに出場し、共に準決勝まで進んだ一流スプリンターだった。

オリンピックの後は、「足を生かした仕事をしたい」と考えていたところ、知人から東京オリオンズの永田雅一オーナーに話がつながり、永田の肝煎りで、代走要員として、1968年のドラフト9位でオリオンズに指名され入団。
球団は話題性を考え、契約時に5000万円の保険を足にかけるほどだった。

当時のロッテは客の不入りに苦しんでいたが、「世界初の代走専門選手」である飯島のデビュー戦には通常の4倍の観客が訪れるほどの人気だった。
そして、この試合で初盗塁を決めたことで飯島の人気は決定的になり、ロッテの本拠地・東京スタジアムの集客は前年比の倍になるほどとなった。
しかし、足の速さだけで簡単に盗塁ができるものではなく、他球団の徹底したマークに遭ったこともあり、1969年から1971年の3年間で117回代走起用され、通算盗塁成功23、盗塁死17、牽制死5、得点は46という成績に終わる。
ただ一方で、塁上に飯島がいることで相手バッテリーにプレッシャーがかかるためか、飯島を塁に置いた時の通算チーム打率は.424、出塁率.494(151打数64安打、8本塁打、四死球20)という記録も残っているので、チームに良い影響は与えたといえよう。

ちなみに1971年には二軍のヤクルト戦で1度だけ打席に立ち、3球三振を喫している。また、登録上のポジションは外野手であったが、プロ生活3年間を通じて一度も守備につくことはなかった。

アレックス・ラミレス・ジュニア(ヤクルト)〜父の契約条件として入団〜

その名の通り、史上初外国人選手による2000本安打を達成した最強助っ人アレックス・ラミレス(現DeNA監督)を父に持つ選手。
ただし、父と言っても、ラミレスの妻の連れ子なので、正確には義父という関係だ。

入団前は野球経験のない全くの素人。
投手扱いで入団したが、この当時は直球は130km/hに満たず、制球もままならなかった。
1年目の春季キャンプでは、2日目に運動不足によるただの筋肉痛による太ももの張りを訴えてダウンするほど。

二軍の教育リーグの実戦初登板で1回を投げ3四球1失点という結果に終わっている。

2年目に、二軍公式戦初登板を果たすが、1/3回を投げ2失点。

3年間チームに在籍したが、二軍の通算成績は3試合、0勝0敗、防御率10.80の成績で終わる。

到底プロとしてやっていくレベルに至らない選手だが、何故ジュニアが入団したかというと、当時、父ラミレスの契約が難航し、契約条件としてジュニアも入団するという条件が組まれていたからだった。
父ラミレスは3年契約し、ジュニアも同じく3年契約で結んだ。
まさに親のコネでの入団だった。

【番外編】大嶋匠(日本ハム)〜ソフトボール部出身からドラフト指名の異色のスラッガー〜

小学校まで野球をやっていたので、未経験ではないが、中学〜大学までソフトボール部に在籍していた北海道日本ハムファイターズの大嶋匠選手も、異種競技転向の異色のプロ野球選手だ。
早稲田大学時代はのU-19日本代表の四番打者として国際大会に出場。
世界男子ジュニア選手権大会3位などの実績を残す。
大学リーグの公式戦では13試合連続本塁打を記録するなど、大学通算80本塁打のスラッガーだった。

日本ハムに入団した経緯は、「記念受験」で受けた入団テストで長打力を披露したことで目に留まり、ドラフト7位で指名されたのだ。

しかし、ソフトボールのスラッガーもプロ入り後は、球の速さの感覚の違いやレベルの高さから、2軍でも結果を残せずいたが、2016年はオープン戦から持ち前の打撃をアピールし、見事開幕一軍メンバー入りを果たす。

硬式野球はプロから始めたまだまだ発展途上の選手。
今後の成長に期待だ。

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