「8・9の悲劇」から始まった伝説

駒大苫小牧野球部は1966年の夏にに甲子園初出場以降長らく甲子園へ出場する事がありませんでした。しかし1995年香田誉士史が野球部顧問として就任、その後監督に就任すると力を付け、2001年夏(83回大会)に32年ぶりの甲子園出場を果たします。
そして2003年の夏の甲子園にも出場。1回戦倉敷工に対して4回表まで8-0で、優位に立っており悲願の甲子園初勝利が目前でした。しかし試合開始前から断続的に降り続いていた雨が勢いを増したため、4回裏2死一、三塁で降雨ノーゲームが宣言され、翌日の再試合で2-5と敗戦を喫する事となります。この試合は、関係者の間で「8・9の悲劇」と呼ばれ、この出来事がバネとなり、翌年からの快進撃の始まりとされています。

優勝旗が津軽海峡を渡った。そして2連覇

「8・9の悲劇」の翌年の2004年の夏の甲子園も出場果たします。ここからが伝説の始まりでした。初戦の佐世保実業を7-3で破ると、続く3回戦の日大三、準々決勝の横浜と次々優勝候補を破り勢いを加速し、決勝まで進めました。
決勝戦の相手はこの年の春のセンバツ優勝校の済美と対戦。乱打戦の末13-10で済美を下し、初優勝。これが北海道の高校としても春夏通じて初の優勝を遂げ、優勝旗が津軽海峡を渡りました。この時のチーム通算打率は大会記録となる.448を記録。
まさに打で圧倒した優勝でした。
そして2005年夏では、2年生で頭角を現した田中将大(現ヤンキース)を擁し、2度目の優勝を果たしました。これは57年ぶり6校目(戦後2校目・学制改革後初)の連覇となり、駒大苫小牧は名実ともに2000年代最強の名門校に君臨していました。

早実との決勝再試合

3連覇のかかった2006年夏も田中将大が3年生となり、その他の野手達も充実し、決勝戦のコマまで進めました。
しかし、3連覇の前に立ちはだかったのが、斎藤佑樹擁する早稲田実業でした。
田中と斎藤の投げ合いは1-1で、延長15回引き分け再試合にもつれ込む高校野球史に残る名試合でした。
再試合となった2試合目は3-4で破れ、3連覇の夢は潰えましたが、高校野球ファンのみならず、社会現象まで起こす伝説の戦いとなりました。

あの夏の感動を再び・・・

その後駒大苫小牧は2007年夏の出場を最後に、夏の甲子園出場が遠ざかっております。
現在は2004年夏の優勝時のキャプテンであった佐々木孝介氏が監督を務め、再び駒苫旋風を起こすべくチーム強化に努めています。
またあの感動を見たいものですね!

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